◎八十八節は合楽、というお知らせから。自分の周囲に幸福を作っていくことが自分の幸福をもたらす。それは、気の強い自分、我の強い自分をわかり、そこを改まって、我無力を悟るところから、自分では意識しないままに神様の御守護を受けておることに触れ、助けられておることに気がつく。そこに初めて幸福を感じることができる
%1幸福になるのは難しいという人。
%2かまきりの擬態から。
%U
%V
昭和四十三年九月二十八日朝の御理解
X御理解第八十八節「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである。」
この御理解を読んだだけでも分かりますよね。なるほど合点のいくことばかりでございます。けれども、この御理解の御神意というものは、どういうようなことであろうかと私、思わせて頂いたら、『この八十八節というところに合楽と書いてある。そういう御心眼を頂いた。合楽』。
読んでいけばそれだけのことですから、そのZ八十八節が合楽につながる。これはどういうことかというと、人間の世界というか、に、本当の幸福をもたらすためには、または幸福にならせて頂くためには、どうしてもこの八十八節の御神意を分からしてもらわなきゃいけん。自分の周囲に幸福を作っていく、幸福をもたらす。また自分自身が幸福になるためには、どうでも御理解八十八節を頂かなければならん。ということです。
%U「嫁入りをする時に鏡を持たせてやるのは顔をきれいにするばかりではない。」ということはどういうことかというと、信心の教えというもの、教えというものはいわば鏡ですが、信心の教えというものは自分が幸福になるばかりではない。ここではそう頂かなければならんですね。自分の顔を美しゅうするばかりではない。ということは、信心を頂く、教えを頂くということは、自分が幸福になるばかりではない。自分の幸福が自分の周囲にまでもそれがもたらされるというところに値打ちがある。
%Uだから、本当の幸福というものは自分だけでは幸福にはなれない。例えばここに、親子でもよい夫婦でもよい、そんなに「私のように幸福なものはおらん」というてもですよ、自分の連れ合いである主人なら主人が、不幸であって自分が幸せであるはずがないでしょうが。「私のような幸せなものはおらん」と親が言うとっても子供が難儀しておって、幸せというてもそれは本当の幸せじゃないですよね。子供が助かり、親が助かり、主人が助かり、家内が助かっておって初めて幸福ということが言えるのです。いわゆる『合楽』なんです。
そこで次にですね、「つらい悲しいと思う時鏡を立てて悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである」つらい悲しいという時に、または腹が立っておる時に、腹立ちの顔、悲しい顔、つらい顔、そういうつらい苦しい腹立ちの顔というものを人に見せなよと。このへんのところを本当に分からなきゃいけんと思うですね。
自分自身も周囲によい顔を見たい。何が機嫌が悪いか知らんけれどもブーとしてからというなのが、横におってご覧なさい。それでは家を治めることはできない。自分もそれがいやならば、人のつらいとか苦しいとか腹立たしい顔を見るのが自分もいやであるならば、自分自身も見せてはならんということ。
いつも家内のにこにこの姿にふれたい。いつも子供の機嫌の良い顔を見たい。なら子供も家内もお父さん、私なら私、自分が見たいなら自分もいつもにこやかでなからなければならないということ。自分はいつも仏頂面しておいてから、そして、人のにこにこを見ろうごとある。自分もいやならば人から見られる自分というものがですいやな顔をしてはおらんかということを、人じゃない自分自身を思うてみらなければならんです。
人から冷たい態度を受けることがいやであるならです、自分自身が温かい私になって、暖かい態度を表わしていかにゃいかんです。そういうところを、相手の心になってということを申しますですね。どんな場合でも相手の気持ちになってみる。自分の気持ちを主張するのではなくてね、相手の気持ちになってみる。というふうに申します。
自分の周囲に腹立たしい顔をしたり、冷たい顔をしたのを見るのがいやであれば、自分自身も冷たい顔をしてはならない、苦しい顔をしておってはならない。そこに教えが生きてくるのである。そこに鏡が必要なんです。人にばかり求めておる。自分に求められておることを棚に上げておる。子供にあああってほしいと親が思うならば、子供が親にあああってほしいという、いわゆるそれを相手の心になってみる。店主であるならば使用人の心になってみる。使用人ならば店主の心になってみる。そういう風なあり方になってきませんと家を治めることは出来んのです。本当に家を治めることはできません。
私はここんところを本当に思います。「何が機嫌が悪いかしれんけれども、つんつんしてブーとしてから」例えば自分の周囲にそういう風に感じる人があった時には、その人もやっぱり自分に同じことを求めているということなんです。そこに教えの鏡というものを立てさせて頂くと、「ほんにあの人じゃない、自分もそうじゃった」ということが分かる。それで、人じゃない、自分がにこやかであられるために、にこやかにあるために信心がある。
%1昨日ある方がね、「幸福になるために信心をする。」幸福になりたいというのでお参りもしておるし、教えも頂いておるのですけれども、「なかなか幸福ということはむつかしいことだ。」そういう意味のここで、お届けともお話ともわからんようにしておりました。Z『そしたらその人がバナナを食べておるです。ところが皮をむかんなそのまま食べておる、バナナを。そしたら、皮を食べたら渋いでしょうね。それこそ渋ちんのごとある顔をしとる。ところを頂いた。』
%1ははあ、かわいっちょむいて食べれば「はあおいしい、おいしい」というて食べられるのに、皮をむかずに食べるからあげな渋ちんのごたる顔をして食べなん。と思うたです。
%V%1おたがいが、例えば皮をむいて食べなければならんものを、皮をむかんなりに食べておるところに、ままになっておっても苦い渋い思いをせねばならんのではなかろうか。一皮むかんといかんのです。だから結局私は思わせてもらいますのに、幸福というのはね。自分というものを、または我というてもいいでしょうね、またはこげなこっちゃおかげは受けられんというものを信心すればだんだん分かってきます。そういうものを葬っていくことなんですよ。幸福とは。
%V%1これを大きな意味で言うなら、結局自分を葬っていくことですよ、日々。なかなか自分を葬っていくということは出来んにしても、自分はいっちょこれを改まらなん。こげな気分を自分は改まらなければおかげにならんということを気付かせて頂いたならば、それを改まることに本気で努めなければ、これは絶対の幸福の条件です。バナナをおいしく頂くためには、どうでも一皮むかなければおいしいバナナが食べられないようなものです。それをバナナを皮ごと食べよるから渋い思いをしなければならんのです。これは幸福の絶対の条件。
%2私ここのお広前のお手洗いを使わせて頂いて、そこは水がかかるからでしょうね、お縁の下が剥げておるでしょう、塗料が剥げてきたならしゅうなっておりますよね。そこんところに「おがまにゃとおさん」がおるとですよ。あのかまきりですね。私は驚きましたですね。もうはげかけたような、薬のかかってないところに、ちゃあんとじっとしておるんです。
%2私はそれを見れば見るほど、なんとこげなことができるじゃろうかと思うたのが、剥げかけた色と同じ色におがまにゃとおさんがなっておるということですよ。どげな絵描きでんこげな同一色にできるまいと思うくらいに、白けたような、剥げかけたような、自分の体全体の色が、そこの板張りの色と同じ色をしておる。危うく踏みつぶすところだった。
%2それを見て思うのですよ。なんと天地の親神様の働きというかね。もう力のないものには力のないもの、弱いものは弱いものに、神様がちゃあんと、弱ければ弱いほど神様の御守護というものはそこに行き届いた働きをなさって下さってあるということです。
%2強がりを言う人、いわば気の強い人、強がりを言う人ですね。または見栄を言う人、自分にない力をあるように見栄を虚講しとる。自分がなんにもできないということを分かってない人。いわば、そういう人は非常に幸福になりがたい人だと思うですね。強がりを言うておりますとですね。そこにそういう神様の御守護を受ける働きがあっておっても、御守護を受けることが出来んです。かまきりが、ここは茶色のところだから、自分の体を茶色にしようとは思うちゃいないですよ。
%2茶色のところに行けば、茶色になり、青いところに行けば体が青くなり、自分は青だから、自分は茶色だからというて茶色が青のところにある。青が茶色のところにあるから外敵の目をごまかすこともできなければ、いわゆる自分の身を守ることも出来んのです。
%2本当に神様のなんという有難い御守護の中にあるのであろうかという、なんという神様の手の込んだ働きの中に日々お生かしのおかげを頂いておるのであろうかと、神恩報謝の心が湧いてくるようなおかげを頂いていくためには、どうしても自分がね。いわゆる、弱きものは我である。という、いわゆる無力なる我であるという、そういう自覚ができてこなければ神様の御守護を御守護として十分にこれに受け止めることができません。
また、感じとることができません。
「神も助かり氏子も立ち行く」これはどういうことかというと、私どもの神のたすかりがないならば、神様も助かりなさらんということです。神様に真に喜んで頂かなければ、私どもの真の喜びはないということです。喜びは分かち合うもの、助かりは自分一人で助かっておるようにあるけれども、それは本当の助かりにはならないということ。「神も助かり氏子も立ち行く」という、おかげでなければ真実の幸福ということは言えない。先程から申します「合楽」の説明がそうなんです。
鏡というもの自分の顔をきれいにするためだけでない。教えというものが自分が幸せになることのためだけでない。そこのところを私は、人のつらい悲しいという顔を見るのがいやであるように、人もまたこちらのいやな顔は見ろうごとないのに違いはないのですから、相手の心になって、自分もにこやかにしておれれる精進をさせてもらわなければならない。たとえば夫婦のもの二人がにこやかにしておって幸福なんだ。それには相手をにこやかにさせよるというよりか、自分自身がにこやかであることに努めたらいいのです。
人ににこやかな顔を見てもらえばそれでいいのである。いつも有難い顔を、有難いふうを、有難い態度をです、いわゆる実意丁寧な態度をです人に示すというのじゃなく人に見てもらったらいいのです。「なんちろくそなか人じゃろうか」と、相手をろくそなかと自分が不愉快になるよりです。自分もいやなら人もいや、だから、自分自身が改まっていく以外にはなか。
Zそこんところを私は、バナナを皮のまんま食べておるということを申しましたですね。自分が一皮むいてご覧なさいませ。本当においしい、こんなに良い風味のものはないのだけれども、自分が改まらずにいるけんいつも自分が渋い思いをしなきゃならん。それは自分がバナナを皮のまま食べておると、まず悟らにゃいかん。
この御理解第八十八節の、読んで字のごとし、そのまま頂かなければならないのでございます。けれども、ちょっとその深さにふれますとね、そういう人間の「人に悪い顔を見せぬように鏡を持っていくんだ」と、いうことをね、自分が幸福になるためじゃなくて、人が幸福なることのために教えは持っておるのである、鏡は持っていくのだということがいえますね。そこに「合楽」のおかげがある。そこに家を治めていくことができる。
%Vただ心の中は泣きよっても、顔だけにこやかであれと、ここに聞こえますけれども、それでは自分の心を治めることはできない。自分の心は治まっとらん。そこで、そんなら自分がそういう渋い顔をしなければならんけれども、顔だけはにこやかにしておるというんじゃなくて、そういう時には自分自身が皮ごとバナナを食べておると思うて、自分が本気で改まったら、自分も有難い、自分もおいしい。人にもにこやかなものを与えることができる。そこに合楽のおかげが受けられる。ただこれは修養的な、家の中を治めるためには、女がこうでなければならないという、表面からだけ聞きよったらそういう風に聞こえるけれども、それでは、表面だけではいけません。
%V信心はどこまでも真から助かるということにあるのですから、その真から助かるということを、信心の教えに頂こうとするなら、この御理解を今私が申しましたような頂き方をしなければならんと思うのです。
%V自分をいわゆる空しゅうしていく、自分を葬っていくということは、これではおかげは受けられん。こげな気の強い自分では本当に自分は幸せにはなれない。こげん自分は強引であっては、これは自他共に幸せになれない。と気付いたらです、そこを改めていくということに一生懸命にならないかん。そしてそれに取り組ませてもろうて、なるならんは別として、本当に改まることに一生懸命努めとるうちに、でもなかなか改まりが出来ん。あいすまんことじゃというところに、弱い者の自分というものを自覚することができる。いわゆる屑の子の自覚に立つことができる。そういう弱い者であるという自覚、無力である自分であるということが分かる。
%Vそこにおがまにゃとおさんじゃないけれども、自分では意識しないまんまに神様の御守護を受けておる、それに触れることができる。「はあ、私のような者を神様はこのようにして弁護して下さる、このようにして守っておって下さる、このようにしておかげを下さる、勿体無いことだ」という、信心によらなければ頂けない、有難い勿体無いというものがでけてくる。
%Vその有難い勿体無いという心でもう一段と改まらなければならないというところに取り組ませてもらう。不思議に改まるということでも、もう激しい心で改まろうとするよりもですね、やっぱり和らいだ心喜びの心をもって改まるほうが改まりよいです。荒修行でもして改まる。そういう生き方もありますけれども、自分の心を和らかにしてその和らいだ心をもって改まっていこうという方が楽ですね。この八十八節からこういうことを皆さんに分かって頂きたい。
%V%U人間の幸福というものは私一人では成り立たない。相手も幸せにならなければ自分の幸せはあり得ない。そこにここにいう「合楽」ということを頂いたんだと思うのです。そんなことじゃったらとても時間がかかる。自分が幸せになる前に人が幸せになることに努めないかん。そうじゃない。人が幸せになることに努めておったら、自分自身がいつの間にか神様に救われておる。助けられておることに気がつく。そこに初めて幸福を感じることができると私は思うですね。どうぞ。